えだのなれの果て

えだなれういです。

私は、私自身の手で、束縛されていた

『君はすっかり読んでしまったら、この本を捨ててくれ給え、そして外へ出た給え』という、有名な一節がある。これは、フランスのジッド・アンドレが、『地の糧』という本で記した一節である。私は、よく、書を捨て、街に出ることが本当に良いことなのだろうかと考える。

以前も話したように、私は、人混みが嫌いだ。人で押し合いへし合い、もみくちゃにされるのは誰もが嫌だろう。これだけならばよいが、花見や散歩などで賑わう公園も、同じように嫌いだ。例えば、景色が良いスポットで、仲睦まじく、時折、ふざけた雰囲気の写真を撮っている人達、例えば、間欠泉が噴出するタイミングで声を上げる人達、そういった人が集まる場所が嫌いだ。だから、特に今のような春先において、街に出ることはとても億劫に感じてしまう。だからこそ、街に出よという言葉が、押し付けがましく聞こえてしまっていたのだろうか。この一節は、受け入れがたく思っていた。

今日は、久し振りに外に出る機会があった。曇り空ではあったが、春はすでにここにあると、風が伝えてくれた。野暮用を済ませた後、少し時間ができた。そこで、曲を聞きつつ、散歩をすることにした。私はそこで『チノカテ』という曲を聞くことにした。これは、冒頭で紹介した本をもとに、ヨルシカというアーティストが作った曲である。この、『チノカテ』を聞きながら、私は少し考えた。『書を捨て、街に出る』という意味を。

私は、本当は、「なにか」になりたかったのだ。だが、「なにか」になることができず、その「なにか」はどうなればよいのかわからず、ただがむしゃらに生きていくことしかできなかった。この先を描く地図や、夜をずっと照らす光、そんなものはなく、いや、見向きもせず生きてきた。

ずっと叶えたかった夢が貴方を縛っていないだろうか?それを諦めていいと言える勇気が少しでもあったら (ヨルシカ/チノカテ)

ああ、私は「なにか」に縛られていたのだ。なぜ、自身を縛り続けたのだろうか。それは簡単で、「なにか」になりたいと、いや、「なにか」にならなければ、生きていけないとさえ思っていたからである。私は、私自身の手で、束縛されていたのだった。そして、冒頭の一節は「自分自身による、自分自身の束縛からの開放」なのだと理解した。

『チノカテ』では、「花瓶の白い花」は「枯れてしまった」。私はまだ、枯れていないだろうか。